29 Jan 2017
ショック療法により、生命の儚さを悟ったので毎日遺書を残すことにしました。
最初に書いた、たくさん買ってきたお土産を渡してほしい人たちの名前のメモは、
結果私以外の人に読まれることもなかった。無事、会いたい人すべてじゃないけど、渡したかった人は少なくとも会いたかった人たちだから、そんな人たち直接会って、生存報告して、生存を確認できて良かった。
私はまだ確実に死んじゃうとき泣きたくなる、ていうか泣く。
今まであった人たちの顔がたくさん浮かんでは消えなくて、心の中で感謝や愛を伝えたって絶対届かないという絶望。気持ちは目に見えるものや聞こえるものにしないと絶対に伝わらないという絶望。おばあちゃんになるころにはどういう死生観を持っているのでしょうか。
もし死にたいな~とか思った日が本当に最期になったら損だと思うから
そういうこと思う前に、人への感謝を心に浮かべて、声に出したり文字にして送信したりしたいのに、今日はそんな気持ちになれそうにありません。
わたし音楽があって、音楽があればずっと繋がれると思ってたけどそうじゃなかったし、私がずっとそうじゃなかったように、彼らもそうじゃなかった。
私が一度離れたように、彼らも離れるし、次私がここを離れたら一生会えないような気がします。
まだごめんねもありがとうも言えないまま、本音も聞けないまま。
思い出さないなら存在しなかったのと同じ。私がどれだけ思いをはせても
死んだら終わりだし、まず気付かれないだろうし、だから失意のままにひっそり死ぬよりは、それでも生きていつかまた 私まだ生きてます!って言いに行くほうが、ね、生きてたら絶対にできること。たとえ地球の裏側にいたとしても。
前月を見ていて、私はこの月もこのままあの国へ行って、
もしもあの人が月を見上げたら、と
私の思いを月に預けたけど
月が行くんじゃなくて地球が自転してるから、
表現としては間違っていたな。
生きていれば絶対にまた会える。本当にそうしたいのなら、
いくらでも手段はある。
私がここを離れたら本当本当の他人になるね。
だって今でさえもう他人だからね。
さよなら、さよなら。
さよならに備えて生きるのはやだな。
でも両親にも、友達にも、今まで私とかかわって結果去ってしまった人にも
ありがとう。
誰にも好かれなさ過ぎて、20年間生きて培った自分というものに
もううんざりです。
一人で生きていくために、私は着々と準備をしているのです。
生きることが切ないよ。